どうして天津甘栗と呼ばれるのか


 甘栗の袋を集める際に製造業者の方、販売店の方にいろいろとお話を
お聞きしました。お聞きした話をまとめたものが下記の二つの説です。


天津港集積説 

 天津甘栗となるシナ栗の生産地は、中華人民共和国・河北省のです。
もう少し具体的にわかりやすく書くと万里の長城に沿った南北約40キロの
地域で生産されています。
このあたりで生産された栗が港のある天津に集められて、天津港から日本に向けて
と輸出されたので天津甘栗と呼ばれたとする説です。

 このような例は日本にもあり、明治期、日本各地や海外に送られた
九州・有田地方で生産された磁器を、その輸出港の名前を取り伊万里焼と
呼ばれました。今でも、骨董愛好家の間で珍重されている 古伊万里 は
有田で初期に作られたものの名前で、その名残です。
交通の発達により有田焼の名前も有名になり、今では有田焼の名前で
生産販売されています。
天津最先端地説
 日本に天津甘栗が伝わった明治期の頃、天津は流行や技術の最先端の地
であり天津から日本に最新の技術や流行が入ってきました。
当時、「天津」という言葉が最新や流行を表す言葉として使われました。
それまで、日本では栗を茹でるか、たき火などに入れ焼いて食べていたものが
鉄釜に小石を入れて中国の栗を焼くというスタイルを最新の食べ物として、
天津甘栗と名付けたと言う説です。

 当時、日本で発明された、かに肉を卵でとじて、甘酢アンを掛けてご飯に載せる
料理を天津丼、もしくは天津飯。中華麺の上に載せたものを天津麺と名付けられ
ました。この、天津丼、天津麺は、天津にも無く日本人の発明と言われています。
 中国・天津から来た生粋の天津人が日本で中華料理店に入り、自分の生まれ
故郷の名前が付けられている天津丼をメニューで見つけうれしかったのだが、
今まで、天津で食べたことがない料理だけに注文して、目の前に置かれた料理を
見てびっくりした。と言う話を聞いたことがあります。

 このように最先端の言葉をつけた例が、東京・浅草の老舗神谷バーで売られて
いるデンキブランです。神谷バー発行の「デンキブラン今昔(一)」に、
電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと“電気○○○”などと呼ばれ、
舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていました。との記述があります。
当時、映画館の名前が電気館や銭湯の名前がデンキ湯等と名付けられたのも
最新のものにあやかりつけられたと言われてます。

        参考文献:神谷バー発行「デンキブラン今昔(一)」