白龍のじゃじゃ麺は中華料理の炸醤麺である

2004/05/09更新

白龍 北京・魯博軒

朝日新聞の記事チェックはわたしの日課である。特に「ふるさと亭」は、いずれ炸醤麺や水餃子の話が出るものと予想していたので読み逃せなかった。そしてもし「トウキビ物語」のような疑問があったら、今度は、徹底的に朝日新聞社に事実を正す覚悟であった。

2000年2月5日、海外出張中で読めずに溜まっていた分を読んでいると、1月30日の朝刊に「ふるさと亭・じゃじゃ麺物語・盛岡」を発見した。30日といえば、ちょうど私が台湾・高雄で炸醤麺の取材をしていた日ではないか。さぁ、鬼のいぬ間にどんな記事を載せたのだろう?(赤字がその引用個所)

じゃじゃ麺は中国語で「炸醤麺」と書く。「炒めみそうどん」の意味だ。

間違いない。

無類の麺好きだった貫勝さんが炸醤麺と出あったのは、徴兵されて終戦を迎えた中国東北部(旧満州)の大衆食堂。第一印象は「みそ臭い」だったが、いつのまにか病みつきになっていた。四十歳を過ぎて盛岡に引き揚げると、妻と二人で目抜き通りに屋台を構えた。

本場の味にたどり着くまで一年近く。貫勝さんと同じく大陸で戦争を経験した人たちが立ち寄ったが、「甘すぎる」「においが変」と散々の評判で、何度もみそをかめごと捨てた。そしてたどり着いたのが、いまの味なのだそうだ。

そう。盛岡で入手可能な材料を使い、いかに本場中国の炸醤麺に近付けるか。高階貫勝さんは努力したのである。記事には無いが、専用の麺まで作らせたのである。この麺があったからこそ我家でも本場に近い炸醤麺を食べることができたのである。ありがとう白龍。

白龍のじゃじゃ麺に関しては、いろいろな伝聞に基づく話があるが、実際に店で取材した岩手大学教育学部附属中学校生徒のレポートも、この記事とほぼ同様である。なお、私は「屋台に立ち寄った大陸で戦争を経験した人たち」の一人である荒川容一からそのころの話を直接取材して書いている。

今回の記事は合格(中学生に負けてないよ)。


上の文を書いた後も、何度か中国、台湾で炸醤麺を食べる機会を得た。 白龍と同様、中国から帰国した日本人が戦後間もなく始めて今日まで残っているもう一つの店 、神戸南京街の「ぎょうざ苑」にも行くことが出来た。 更にいくつかの本で、過去や現在の北京の炸醤麺の様子もわかってきた。

実はそれまで、白龍の炸醤麺と食べ方について、いくつかの細かい点で日本風というか盛岡流アレンジがされていると私も思っていた。しかしそれはとんでもない誤りであった。

我が家では麺を茹でた後、夏には水で冷やして食べる。また炸醤麺に欠かせないキュウリは 夏の野菜である。 したがって冷やすのが本来の姿であって、白龍のように夏でも熱いまま出すのは おかしいと思っていた。 ところがである、中国、台湾では一度も冷やした炸醤麺を食べることが出来なかったのである。 中国では炸醤麺に限らず冷たい食べ物は稀であり、炸醤麺も「北京では夏に冷やす場合もある」 ということのようだ。

もう一つは卓上調味料の使用である。中国、台湾の人は、酢やらニンニクやら各人が 好き勝手に遠慮無くかけて自分流に味付けして食べるのだ。そしてよく混ぜる。 私の家や日本の他の飲食店ではあまり見られない光景である。しかし、白龍の客にはこれもしっかり伝わっている。

そして〆の「ちーたんたん」と言われるもの。 北京語では「鶏蛋湯」をこう発音する。鶏のたまごのスープのことである (卵は虫や魚のたまごを指す)。 麺の茹で汁を飲むこと。これは身体に良いこととされているそうだ (カンスイが入った中華麺の茹で汁だったら、とても飲めたものではない)。 また、白龍には「ろーすーめん」とうメニューもあるが、これは「肉絲麺」であろう。 盛岡には昔の中国東北地方の食文化が人知れずそっくり保管されているのだ。

geminizz@hamakko.or.jp

荒川文治(あらかわ ふみはる)
神奈川県横浜市

炸醤麺と水餃子情報のトップページへ